私と瞑想

ここ数年で、自分のライフスタイルに瞑想を取り入れている方が増えてきた感じがします。世の中が変わってきたなあとホッとしています。

かくいう私も瞑想を習慣にしだしてから10年以上経つので、瞑想の体験談をシェアしてみようと思います。ヨギの人たちみたいな瞑想はできないけれど、私の心身の健康に合っている範囲で取り入れていますので、参考になると嬉しいです。


瞑想との出会い

瞑想との出会いは20年くらい前です。親の信仰する宗教の瞑想の集まりの中で先導者の誘導に従って瞑想を行うというものです。当時20歳手前で悩みが多い年頃でした。自閉症スペクトラムなのもあって変わり者でなかなか友だちを作れずにいました。感受性が強くていろんなことを知りすぎて、同年代はおろか親も幼く見えていたし、いつも誰かに裏切られていて、孤独感や生きづらさを非常に強く感じていました。「どうして私はここに生まれてしまったんだろう」という恥ずかしさと苦しみでいっぱいで、自傷癖がありました。
瞑想などということは異次元の世界の話でした。「少しでも動いたら棒みたいなので叩かれるんじゃないか」とか、色々心配がありつつも、参加しました。

初めての瞑想

良くも悪くも、10代というのは素直なもので、目を瞑って座り、誘導に対してとくに疑うこともなく従いました。叩かれたりするようなことはもちろんありません。
宗教は「この世の総て」、いわゆる創造主やブラフマンを「神」と表現しますが、「神の愛が無限に広がっている海に自分がいるイメージ」をこのとき誘導で言われて、それを一生懸命イメージしました。そのとき、ポロッと目から涙がこぼれ落ちました。「なぜ?」と問われても、答えにピッタリな言葉は今でも見つかりません。近い言葉は「赦し」「癒し」かなと思います。例えるなら、神様がこう言っていた気がしたのです。
「大丈夫。あなたは生きてはいけない人ではない。生きなさい。それが赦されている、」
その時に、初めて自分の心がこの人生で生まれてからひとときの休みもなく張り詰めていたことに気がつきました。もちろん家でもリラックスできていないのです。それが、初めて緩んだ瞬間でした。堰を切ったように涙が止まらなくなりました。
これがきっかけで「瞑想」を知り、心の癒しになることを感じ、瞑想が好きになりました。おそらく、「私は悟った」と自称する方の中にはこの体験の衝撃的さと、シェアの難しさからそう感じたから、というのもあるかもしれません。「悟り」についてはまた別の機会にお話してみようと思いますが、瞑想の良さをそこに感じることは少なからずあります。
私はこの宗教に20代まで出入りしていましたが、その信徒さんたちともこの体験をシェアすることはできませんでした。この瞑想で彼らは何も感じていないようです。宗教団体でよくある、集まりに参加して、幹部の人に顔を覚えてもらうだけで満足する人がほとんどでした。私は今では、まったくこの宗教の瞑想は行わなくなりました。親とは縁切りしましたし、新興宗教団体組織が苦手だったので行わないことにしました。ヨガの瞑想などで同じようなものがありますし、そちらを行っています。

瞑想の話題を探して

私は、瞑想で私と同じような体験をした人がいないかな、と心のどこかで思っていました。その頃はインターネットが世の中に普及し始めた頃で、ネットで話題になっていた瞑想といえば小周天や大周天といった気功の一部としてのものくらいで、瞑想について話すこともなければ先生を探すことも難しかったと記憶しています。
その時期に「ヒプノセラピー」というものがあることを知りましたが、若い頃の私は暮らしていくので精一杯でセッションを受けにいくことができませんでしたし、ネットで見つけた方は海外在住の方でした。そこで、その方の販売していた瞑想CDを購入して時々聴くようになりました。(その方は今は販売していないようですね。)その瞑想CDを聴くようになって、私の自傷頻度が徐々に少なくなってきました。20代後半を迎える頃には、すっかり自傷癖がなくなりました。
その中で、先述の「涙が出る体験」を何度か体験しました。
このような時期を過ごしていたため、今、マインドフルネス瞑想、慈悲の瞑想、歩行瞑想などを行う人が増えてきたことに驚きを感じていますし、嬉しくもあります。

瞑想の習慣化

毎日瞑想を行うようになったのは20代半ば頃です。仕事の前に通勤の電車やバスの中で15分〜20分行っていました。行った日とそうでない日で仕事のパフォーマンスが全く違ったのです。行った日は課題に打ち当たってもアイディアが出てきたり、メールの処理がテキパキできたりと、すんなり打ち込めていました。しかし、行わなかった日はダラダラしてしまい、次の日にタスクを繰り越したり、仕事に集中できなかったりしました。
それと、これは気のせいかもしれませんが、瞑想を習慣化してからというもの、チャンスを掴みやすくなったり、晴天の霹靂みたいなことが起きてもスムーズに救いの手が差し伸べられたりと、運も良くなったように感じます。
瞑想は、仕事の日には特になくてはならないものになりました。

現在の私の瞑想

今は、いつも午前中に瞑想を行っています。ヨガを行って身体をほぐした後に、慈悲の瞑想を行っています。これは、他で説明している方がいらっしゃるので詳細は省きますが、自分自身の中に慈悲の心を呼び起こすような言葉を心の中で唱えます。以下の言葉です。

『慈悲の瞑想』の言葉

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとが叶えられますように

私に悟りの光が現れますように

私は幸せでありますように(3回)


私の親しい生命が幸せでありますように

私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい生命の願いごとが叶えられますように

私の親しい生命に悟りの光が現れますように

私の親しい生命が幸せでありますように(3回)


生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)日本テーラワーダ仏教協会:慈悲の瞑想


私はこれを断言形で唱えています。「生きとし生けるものが幸せです」というように。脳が「そうなっている」と勘違いしてそれらが現実となり、私の人生に体験として出現することを期待してそのようにしています。
また、一呼吸に一文で行っています。吸う息で「生きとし生けるものが」、吐く息で「幸せです」といった具合です。イメージが定着しやすい感じがします。

私の感じる瞑想のコツ

瞑想にはいくつかのコツがあるように感じます。

(1) 始める前に身体をほぐす

関節や筋肉に滞りがあると効果が半減する感じがします。時間がない時や外出先でストレッチができない場合は省いていますが、ちょっとしたストレッチや、ヨガの太陽礼拝などを行った後に瞑想をするとより良いと感じます。

(2) 最大限にリラックスして眉間に視線を集める

地面にどっしり座った、もしくは足の裏をつけた感じと脱力してフワフワした感じが同居するように行うと変性意識状態になりやすいです。そのために、左右のお尻または足の裏を同じ強さで地面につけ、背骨を伸ばし、リラックスします。そして、瞑った両目の視線をおでこの真ん中に向けます。この状態でゆっくりと深呼吸をします。そうすることで、光一面の世界に居る感覚を感じます。

(3) 雑念は気にせず頭の付け根を締める

雑念が出てきて困るとき、基本的に他人事みたいに受け流します。自動思考であって本来の自分の思考ではないので、適当にあしらいます。また、雑念が出てくるときは、大抵は顔が下向きになっています。頭を起こして首の後ろで頭の付け根になるところを締めるようにするとおさまってきます。

いかがだったでしょうか。空いた時間が増えた方に、是非おすすめしたいです。また、初心者の方におすすめな誘導瞑想を別の機会で紹介したいと思います。

それでは、また。

夜明けの再会

心あたたまる世界を思い出して再会する場所

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