近年、日本のミッションについて耳にすることが増えてきたり、保守の人たちの声が大きくなってきたりしています。今日は我が国日本について書いてみます。
生まれ故郷は好きですか?私は好きです。生まれた土地も、日本も大好きです。そうでない人はここでスクロールをやめてブラウザの戻るボタンを押した方が心臓に良いでしょう。
セルフコンパッション
ちょっと前、自分への思いやりが話題になりましたね。セルフコンパッションという言葉が世間から流れてきました。自分自身への思いやりが心の滋養になります。恐怖や怒りや悲しみを克服できるものでもあります。それらから解放され、自立し、自由になるための方法でもあります。
これってフラクタル(相似)に応用できるものなのではと私は思います。自分に思いやりを持てる人は他者に思いやりを持てます。他者に思いやりを持てたら我が町にも思いやりを持てます。我が町に思いやりを持てたら我が国にも思いやりを持てます。
しかし、私たちが育ってきた教科書にはどんなことが書いてあったでしょうか?「日本が悪かった」「世界の研究が絶対だ」そんなことが常識としてまかり通りました。また、謙虚さと自己否定をごちゃ混ぜにした倫理観で教育をしてきました。私たちはすっかり自信をなくし、会社の歯車になることにしか価値を見出せなくなりました。「役職や人気がなければ価値がない」と「条件付きの愛」でしか外界と接することができなくなりました。本来、生きとし生けるもの全てが無条件に価値があるものなのに。じゃなきゃ生まれてこないのに。
日本人が日本人のアイデンティティを大事にする、日本人としてのセルフコンパッションを持つことで右翼扱いさえも受けてきました。自己否定をしないと存在価値が無いかのように。日本人が日本のことを誇れなくて誰が誇るのでしょうか?「一体何を教育したかったのだろう?」と未だに疑問です。
怪しいアナキズム(無政府主義)の横行
私が若い頃、ロックバンドの活動をしていました。しかもパンクロックだったので周囲の人は「アナキズム」をやたら推してきました。無政府主義ですね。政府はいらないと。それはそれとして、どこかおかしかったのです。ちょっとでもそのロックの教科書どおりでない、例えば「私が生まれた国日本が好き」などの考えを持っていようものなら、たちまち叩かれてしまうのです。これにより、音楽を続けることに嫌気が差してしまいました。演奏で表現することは大好きだったのですが。
思想の画一化ですね。どこかの思想でありますね、それは。浅間山荘事件ではたくさんの若者が暴行を受けて亡くなりました。しかし、本来のアナキズムはそのような画一化ではなかったはずなのです。自立した個人の自由であって、政府にケチつけるというような稚拙なものじゃなかったはずです。個性を活かす場であって、無個性にもっていくことでもなかったはずなのです。誰が何を考えていても良かったはずなのです。思想を画一化してしまうと「大きな政府による支配」とほぼ変わりのないものであり、彼らが本来忌み嫌うものになります。
何かがおかしい。何がおかしいのでしょうか?この堂々巡りは、なぜ起きるのでしょうか?
必要なのは画一化ではなく調和
生きとし生けるものには、本来無条件に価値があります。それを活かすことに価値があります。少なくとも私はそう思っています。画一化をすると、その価値ある行いを潰してしまうのです。それは、生きていることになるのでしょうか?ピオニーが薔薇にならなければならないことはないのではないでしょうか?トマトが桜にならなければならないことはないのではないでしょうか?私は私、日本は日本、コジコジはずっとコジコジなのです。必要なのは世界の調和であって、世界の画一化ではないと考えています。画一化は、外界との違いに対する恐怖心を克服できない弱虫がすることなのではないでしょうか?
和の世界
日本を示す文字に「和」があります。調和、ハーモニーですね。「世界がひとつ」だということは、決して国境を無くしてその国固有の文化を壊して画一化することではなく、それらが凸凹に組み合わさって調和することだと私は考えています。
ジョンレノンは好きですが、生憎、国境のない画一化した世界は想像したくないです。お断りします。これが私の感情です。オーケストラの楽団員が全員バイオリニストである必要は全くと言っていいほど無いのです。ビオラもあればホルンもあり、ピアノもあり、シンバルもある。これらが組み合わさって一つの曲を演じるのです。
日本には、この性質がふんだんに湛えられているのです。これが、日本の個性であり、アイデンティティです。ここにセルフコンパッションを示さない理由があるのでしょうか?
日本のミッション
遣隋使の時代、朝廷から煬帝に宛てた国書に以下の文があります。
日出處天子致書日沒處天子無恙云云
(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)東夷傳俀國傳
現代になると海外の人が日本を「Rising Sunの国」と言うこともあります。また皇室の菊花紋は、世界に似たような紋章が多々ありそれは「太陽の紋」と呼ばれています。このことから思うに、日本の役割は「太陽」なのではないでしょうか。我が国の国旗は太陽が描かれていますが、諸外国の国旗は星や月が描かれています。日本は世界を輝かせるための国だったのだろうと私は推測しています。おそらく、日本が日の本の国という謂れは、日本がお手本を示して他の月や星が国旗の国々がそれを受けて光る(真似る)ということを示しているのでしょう。
そうだとすると、いつまでも太陽の国が天岩戸に隠れてたら世界が死んでしまうことになります。日本人が他人事になってたら、やがて地球の生命は失われていくということです。そこで最近よく言われている「目覚めよ日本人」であって決して優越性ではなく世界を照らす役割を果たす責任なのだと思うのです。
今までは、月明かりの闇夜の時代でした。これは物質ばかりに囚われて、心や精神や魂の世界を全く無視した時代です。論理的さの重視が目立ちました。
プログラミング言語の世界も最初は機械にしかわからない1か0のスイッチ切替、論理で切替する極端なものでしたが、人間に分かるプログラミング言語が生まれ、そこからオブジェクト指向が生まれ、ハードウェアでは量子コンピューターまで誕生し、曖昧なものの処理ができるまでに時代が進んできました。これは、月夜の終わりで、夜明けを迎えたことを示していると考えています。これからまた日が昇るということです。
安定は調和の上に成り立つもの
公務員になれば安定、大企業に勤めれば安定、今まではそういうことを言われてきましたが、いよいよそれも揺らいできました。本当に安定していたのではなく、それはイリュージョンだったのです。何かに支配されている状態は、まるで鶏小屋に敷き詰められた鶏たちみたいに、食住が保証された安定でした。野生動物に食べられる心配もありませんが、毎日餌を食べて卵を産むだけのワンパターンの生活で何かやりたかった遊びがあってもそれを忘れるしかありませんでした。
私たちの生きる意味は、この鶏たちみたいに自分の生まれてきた理由を忘れて寿命が終わるその日までご飯を食べ続けることなのでしょうか?何かあったはずです。だからこそ、映画を見て涙するはずですし、心躍る音楽に身体が動いてしまうのだと思うのです。では、それを思い出すために、どうしたらいいのでしょうか?
本物の安定はこれまでに言われてきた「安定」の上には無いということを知っておくことだと私は主張したいです。
ヨガをするようになってそう感じました。ヨガにはフラフラしてしまう不安定なポーズがいくつかあります。例えば、木のポーズや鷲のポーズなど。本来の自然な「生きる」はそのくらい不安定なものなんだと感じています。それを安定させるためにはどうすればいいのか。一点を見つめて、呼吸に集中します。二本の足と呼吸が調和したときに不安定なポーズも安定するのです。人生も、本来は誰かに支柱になってもらったり誰かに寄りかかって安定するものではなく、己の中の調和が安定を生み出すものなのだな、という感じがしています。むしろその不安定さを安定に向かわせる遊びにこそ、楽しみや意味があるのではないでしょうか?
世の中が不安定で、心も不安定になりがちですが、どのように思われますか?
それでは、また。
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